塵書き

日記とか詩とか、言葉の落書きとか。思うままに。

”過”消化

人間は日々成長するものだという。

 

生物学的にはその言葉に概ね偽りはないだろう。

 

生まれ、育ち、老い、死ぬ。

死が人間の成長の終着点と考えるならここに停滞の余地はなく、日々誰しもが終着点に向けて歩みを進めているのだ。

 

 

 

 

では、”成長”という計測器は、その時間の過程のみを指すものだろうか。

否である。

 

特に”人”に対しての成長とは、必ず迎える終着点以外の項目に対しても、成長を当て嵌めたがる。

 

「人間的に」だとか「社会的に」だとか「子供から大人に」だとか「心が」だとか、不明瞭で不透明で抽象的で曖昧な概念に対して、誰かが決めたわけでもない尺度を測って勝手に他人と己の”成長”を見定めたがる。

 

本当はそんなものないのに。

それは言い訳に過ぎないのに。

 

無為に消化される日常に意味を見出すために、取り繕ったお為ごかしを利用して自分から逃げているに過ぎない。

 

それでも消化は加速する。

 

ジャネーの法則」は私たちが記憶を持つ限りその鎖を外さない。

 

故に、アイデンティティを常に重ねていかなければならない。

澱のように、塵のように、常に更新され続ける機械のように。

 

その心の拍動を停めないために