”過”消化
人間は日々成長するものだという。
生物学的にはその言葉に概ね偽りはないだろう。
生まれ、育ち、老い、死ぬ。
死が人間の成長の終着点と考えるならここに停滞の余地はなく、日々誰しもが終着点に向けて歩みを進めているのだ。
では、”成長”という計測器は、その時間の過程のみを指すものだろうか。
否である。
特に”人”に対しての成長とは、必ず迎える終着点以外の項目に対しても、成長を当て嵌めたがる。
「人間的に」だとか「社会的に」だとか「子供から大人に」だとか「心が」だとか、不明瞭で不透明で抽象的で曖昧な概念に対して、誰かが決めたわけでもない尺度を測って勝手に他人と己の”成長”を見定めたがる。
本当はそんなものないのに。
それは言い訳に過ぎないのに。
無為に消化される日常に意味を見出すために、取り繕ったお為ごかしを利用して自分から逃げているに過ぎない。
それでも消化は加速する。
「ジャネーの法則」は私たちが記憶を持つ限りその鎖を外さない。
故に、アイデンティティを常に重ねていかなければならない。
澱のように、塵のように、常に更新され続ける機械のように。
その心の拍動を停めないために