塵書き

日記とか詩とか、言葉の落書きとか。思うままに。

"費やす"という快楽

競馬に12000円を賭け、11800円が返ってきたなんともいえない気持ちの昼下がり。

ふと自分の必需品が足りなかったことを思い出し、近所の大型ショッピングモールに足を向けた。

 


「あーー……仕事用の靴も買いたいし、夏服も買いたいなぁ」

 


周りに聞こえない程度の声量で、ぽつりと独り言ちる。

マスクを着ける社会に慣れてからというもの、他人に口元を見られないことからか、独り言が余計に酷くなった気がする。

イヤホンで音楽を聴いていないと、たまに鼻歌を唄ってしまったりしている自分に驚く。

音楽依存症ここに極まれり。気を付けないとまた"変人"とレッテルを貼られてしまう。

 


目的のブツを買い揃え、靴や服を眺めに行く。

 


「…………なんか、めんどくせえな」

 


今日は1日、やる気の出ない日らしい。

店の前まで来たものの、入る気はしなかった。

しかしその心情には"なにか買わなければ気が済まない"という謎のプライドだけが残り、近くの本屋にフラフラと入った。

本棚にビッシリと詰まったマンガ、興味を唆るタイトルの小説、前々から気になっていたラノベ、今後必要になるのかよくわかってない技術書などなど。

自分の部屋には入りきらない量の、欲しいもので溢れたその様相を眺めて、深くため息をつく。

 


(……昔よりも稼いで、買うことに躊躇いはなくなったけど、今度は昔よりも読む時間が無くなっちまったな……)

 


ままならない人生の矛盾。あちらが立てばこちらが立たずと言わんばかりのもどかしさを感じて、ただただ鬱になり、なにも買わずにその場を後にした。

 


虚無感と倦怠感に苛まれながら、自分の中での"消費"する意思の割合が多いことに気がついた。

自分の人生の中で、音楽や小説、マンガにゲームなど、人の生み出した様々な創作物を消費することに、自分はある種の快楽を感じていたのかもしれない。

 


この欲を埋めるのに、自分にはなにが必要なのか。

考えるのは後にした。この倦怠感が私の頭を鈍らせる。

 


この後回しが私の人生の回答なのだろうな、と諦観を含む心地で、私は目を閉じた。

”過”消化

人間は日々成長するものだという。

 

生物学的にはその言葉に概ね偽りはないだろう。

 

生まれ、育ち、老い、死ぬ。

死が人間の成長の終着点と考えるならここに停滞の余地はなく、日々誰しもが終着点に向けて歩みを進めているのだ。

 

 

 

 

では、”成長”という計測器は、その時間の過程のみを指すものだろうか。

否である。

 

特に”人”に対しての成長とは、必ず迎える終着点以外の項目に対しても、成長を当て嵌めたがる。

 

「人間的に」だとか「社会的に」だとか「子供から大人に」だとか「心が」だとか、不明瞭で不透明で抽象的で曖昧な概念に対して、誰かが決めたわけでもない尺度を測って勝手に他人と己の”成長”を見定めたがる。

 

本当はそんなものないのに。

それは言い訳に過ぎないのに。

 

無為に消化される日常に意味を見出すために、取り繕ったお為ごかしを利用して自分から逃げているに過ぎない。

 

それでも消化は加速する。

 

ジャネーの法則」は私たちが記憶を持つ限りその鎖を外さない。

 

故に、アイデンティティを常に重ねていかなければならない。

澱のように、塵のように、常に更新され続ける機械のように。

 

その心の拍動を停めないために

2022年2月21日 晴れ

時刻は夕暮れに差し掛かっている

自分が大人になったという自覚はないまま、研修という名を借りた事実上の仕事に勤しんでいる

お金がない、ということで自らの時間が奪われることを私は良しとしない

しかし自分が生きる為にはお金が必要で、それがないとこれから先も生きていけないというままならない現状に嫌気が差していて

これから自分がどうなってしまうのか想像もつかなくて

こんなことならと後悔するとともに、いつでも死を迎える準備はできていて

 

ただただ今は自己嫌悪を呑み込んで息を詰まらせる

思い出は返らない

自分の心はまだ、校舎から見た夕暮れの景色を追っていて、大人になったなんて自覚もないまま、時間の残酷さを感じながら涙を流している。

 


大人になったという感慨があるのではなく

大人になってしまったという諦観がそこにはあって

いつか来ると覚悟していたその断頭台が遂に迫ってきて

どうすればいいのかもわからずただ泣くしかない

 


ここにはない何処かに

きっと自分が追い求めていた未来があると信じて

いつからか痛み、軋んだ脚を動かし続けて

いったいどれほどの時が経ったのだろう

 


薄く、長く、ただ惰性的にも見える人生をたった数十年過ごした程度で、世の中の全てを知ったふうになっているのは、この世界が思った以上に窮屈であることの裏返しなんじゃないだろうか

 


こんなことなら始めからなにも知らないまま

最後まで理解しないまま、ただ愚かに過ごしてきたほうがよっぽど楽なのではないか

 


どうして、こんなに辛いものを知ってしまったのだろう

ただ、それを知りたかっただけなのに

可視化されるゴールと待望される終焉

いつまでも終わりがない繰り返しの作業に

ある日突然ゴールが見えると

その日までのカウントダウンが

心做しか早くなるように感じる今日を過ごす

 

 

 

さて、文には必ず句点があるが、長文にはここに読点が必要になるというのは、もの書きの基礎中の基礎である。

 

自身の長い道のりにもこの読点は必要なのではないだろうか。

 

つまり、読点とするか、句点に変えるかである。

 

ともあれ君次第ではあるが。

その終焉を私は望む

病状

後悔とは人間に科せられた原罪の枷である

誤りと謝りの歴史は連綿と繰り返され

過ちと誤ちの積載はバベルの塔を建てる

人にはそれぞれの塔があり

積めば積むほど景色は見え

積めば積むほどに自らは堕ちるのである

また智を知らんとするものは

己は大穴の中心で停滞しているようにしか見えない

その身は引き裂かれ塵芥となることを知らない

人こそあれど、人間などあってはならぬと知れ

個はあれど、集は無為と知れ

それが分からぬ擬き共は畜生に堕ちると知れ

痴れ者にはならぬと決めた心は

また知らず者と謗られる

 


私はそれを見届ける後列にあり

最期にそれを知りたいのだ

暮れ枯れ

救いとは何か

という題目があったとして、そこに夢を描く人はどれくらいいるのだろう

 


世の中はマルかバツ、零か百しかなくて

世界のルールはそうやって決まっていると信じていた

水滴が落ちて墨が薄まるように消えていった思想の切掛を覚えているか

 


「変わりたい」という人間の心理に否応なく変転する自分を見つめて、果たしてそれは「変われた」と思えるのだろうか

 


現を踏んだ君に解答欄を埋めることはできるか

 

 

 

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「日の暮れを見ると心がざわつかないかい?」

 


「わからない。どうしてそう思うんだ?」

 


「うまく言葉にすることができないんだけど」

 


飲料の残っているペットボトルを蹴り捨てる

 


「こんな感じ」

 


「怒っているのかい?」

 


「違う。怒っているわけじゃないの。でもね」

 


食べ残しがある弁当箱を投げ捨てる

 


「なんだか落ち着かないんだ」

 


「…そうか。君が言うならそうなんだろう」

 


「ねぇ」

 


首に手がかかる

 


「想像してみて。もし君が救いを考えるなら、それはどんな景色になってる?」

 


「……とても、残酷なんだけれど…それが一番の近道で、そしてきっと、美しいと思う」

 


「驚いた。君ってロマンチストなんだ」

 


首にかかった手が離れる

 


「そっか。悲しいな、君とはもう一緒にいれないや」

 


「僕は悲しくないな。なんだか晴れやかなんだ。君の残した熱が消えたら、僕は帰るよ」

 


「ふふ、きっとまた会えるよ。さようなら」

 


微笑んだその瞳には、昨日流した涙が今日も流れている