俯瞰焦点
生命線が短い、と指摘されたことに腹を立てたことはない。
自分の寿命が手の皺ごときで決まるわけがないと思っているからだ。
今まで社会に反しないように生きていた。
出る杭は打たれる、異端は処される。
尖った気持ちをひたすら丸くした。
心はいつも穏やかだった。
理不尽は仕方ないと諦められた。
今までに悪いことなんて1度もしてこなかった。
嘘を吐いたのは、母の日に作ってあげたパンケーキを一切れ多く食べたのを、誤魔化した時だけだった。5歳の時だった。
悪心を出すことは自分の弱い部分を出すことだと学んだ。人との関わりで悪心を出さないことに苦慮した。うまくやれるようになるまで、そう時間はかからなかった。
幸福もなければ、不幸もない
そんな人生を謳歌していた。
それで良いと思っていた。
仰向けに寝転んでることに気づいた…
どこに?地面はとても固い、まるでコンクリート
嗚呼、神様
私の人生は一体なにがいけなかったのでしょうか。
日記2020年6/13 雨
久しぶりに雨が降った。
この日は朝から心地が良かったので、記録を残しておこうと思う。
一日を通してずっと家にいたが、外から聴こえる雨音と、ほんのりと下がった気温、雨の匂い、程よい湿度をよく覚えている。
画面と向き合って終始作業に(それしかしていないが)没頭できた一日だった。
春過ぎ夏ウツリ
芝を踏む音に耳を傾ける時期となりました。
我が家から少し散歩をすると、郊外とは思えぬような長閑さを持った自然の原風景を眺めることが出来、それはまるで田舎に帰省でもしたのかと疑う程の自然の多さに心に穏やかさが拡がります。
それはまさに柳暗花明。このクソ平野でまさかこのような単語を使うことができるとは。と少し感動
住み始めて既に10年を超えましたが、年々減りつつある地元への新たな気づきの1つでありましょうや。
而れども、時世というのは大衆の意思に翻弄されるもの。
生き汚さで追随を許さない私は集を良しとせず、孤であることに縋る醜い肉塊であることを屡々痛感致します。
出不精ここに極まれり、日々惰眠と雑"飯"を貪る哀れな獣がここにひとつ。
長いこと人間という存在を見ないでおくと、久しぶりにソレを見た時に感じる不快さは恐ろしいもので、吐き気を催す危うさを孕みながら雑踏を往くことに嫌気を感じております。
ひいては、更に流行らぬものか、長ければ長く、拡がれば拡がるほどより良い。と妄を膨らませ、激しく流れる"日和"河を漂う始末。
皆様も世をより良く動かすは如何かを毎毎己が胸中に問うてみるのも"おうち時間"なるを過ごすにはうってつけかと存じます。
それでは、良き生を
事象の地平線
補遺
世界を目視出来てしまったあなたへ
お気付きになられたと思いますが、貴方が目撃したそれこそが紛れもなく、飾りもない真実でございます。
貴方が今まで感じてきた日常とは、造られた夢現の微睡みの中にある、枯れゆくも停まっている花弁を眺めているようなものです。
貴方は誰もが覚めない夢を見飽き、見放し、看做した唯一の存在と成りました。
しかしその代償は、残酷な真実を知る義務を抱えてここに立つこととなります。
ここから先に世界は無く、ここから前の世界もありません。
停滞という悠久は貴方という稀有を殺しました。
然しながら、無は貴方という有を認めたのも事実。
貴方は神そのものであると同時に神の一部であります。
つまるところ、真実は貴方の脳髄の中に
世界も星も宇宙も神も、総ては貴方の脳に揃っております。
これは貴方のもの。貴方だけの至宝であります。
是非に
事象の地平線より
毒喰らえ
正しい言葉を紡げないから
正しい決断をいつまでも出来ずにいる
昨日の僕よりも腐敗した今日の俺
言葉は猛毒だ
望みと諦めのはなし
思い募る言葉は数あれど、それを書き記さんと手を動かすと、微睡みの中で見た夢のように思い出せないのは何故だろう
今まで自分が築いてきたように感じているものは、自分が思い募らせ積み上げた言葉のように曖昧模糊としていて、判然としない記憶の中のもので
もしかしたら本当は自分が得たものなんて何も無いと
それはまるで餌を求める鯉にも見えよう
虚ろな目をして空を食んでいる、まさしく空虚な自分こそが深層であり、然してそれが真実なのではと都度考える
何も成し得なかった
進んできた道の後ろには後悔が積み重なって、追手を通さんとばかりに、私の心の中に壁を築くのだ
どこで間違えたと口に出しては見るものの
振り返れば塞がった後悔に塗れた自分の醜態と向き合うことになる
未だに恥を捨てきることのできない自分が
それは厭だと駄々をこねる
気の弱い自律心はそれに同調して私の理性と現実に振り向かせまいと必死で捲し立てる
もう少し、もう少しだけ進めば何かあるかもしれない
何かが眠っているかもしれない
土壌の中には種のひとつも埋まっていないというのに、純真無垢な理性はその根拠の無い言葉を鵜呑みにする
心の隅では解っている
どこまで掘り続けても何もないと
どこまで手で搔こうとも何も見えないと
それでも、一縷にも満たない希望に縋り付く
感情はひとつだけじゃなくて、沢山の糸が絡んで解けない
ひとつは諦観
もうひとつは希望
またひとつは疲弊
絡み合った糸から生まれたごちゃごちゃの毛玉のようなものが、人の感情なのだとしたら
私のそれは些か矮小に、人より醜く見えることだろう
2月24日 21時35分
皆様、こんばんは
いま私は深夜のアルバイトに向かっております。
業種は言えません。働くことは胸を張れることではないと思っているので、そこには触れないでいただきたい。
さて、「貧乏」というのは、振りほどいて逃げ切るのにとても苦労するもので、私は今日も今日とて「貧乏」が見せる危機感に追い込まれ、こうして(社会的に)生きるための時間を費やそうとしているわけです。
しかもこれはとても恐ろしい毒で、生まれが貧困であるとそこの子供は親の遺した負を精算するところから人生がスタートします。恐ろしい人生デバフです。最悪の場合連鎖を引き起こすそれは、世の中が生み出した世界の癌の一つだと私は思います。
まぁだからと言ってその境遇にいる人を嘲笑うことはできるはずもありません。誰もが不幸で不憫で不正を享受できるような世界ですから。
「原罪」という言葉をご存知でしょうか
(前提として私は無宗教ですが)旧約聖書の創世記にある、我々人類の祖であるアダムとイヴが、禁じられていた知恵の樹の実を蛇に唆されて口にしたこと。
そして我々人類は正と悪の分別をつける知恵を得た。唯一知恵を持つ神に対し反逆を起こしたに等しい行為だそうです。
然れども世の中とは不思議なもので、その子孫である我々は未だに全ての事柄を善悪区別をつけることができないどころか、それらを理解、認識すらできない。
後悔とはあらゆる物事と現象に付き纏い、それらの残穢のように人を毒していくことに、私が気づいたのはつい最近の事です。
自分が今までやってきたことは正しかったのだろうか。
自分が今までに正しいと思ってきたことは間違いだったのか。
ことある毎に頭の中を苛むのは、私を糾さんとする私の声で、それは終ぞ告白できなかった初恋のあの人が、今幸せそうな顔をしているのを遠くで眺めている虚無感に似ています。
本当は恋なんて1度もしたことないくせに
価値観とは曖昧なもので、人の数だけものの見方はあります。具体と抽象を綯い交ぜにした「多様性」とかいう都合のいい言葉は、今の増えすぎた人間を嘲笑うようにレッテルを貼り、それに振り回されて私は今を苦しみながら生きているのです。
私には後悔しか残らない